ライオンズ会員コラム

山口ライオンズクラブ訪問記

       鶴居 康行


今年7月少々頼りない会長としてスタートを切りました。皆様のご協力のおかげで
なんとかスムーズな会の運営ができていることに感謝申し上げます。
新体制になってから初の県外イベントとして山口ライオンズクラブさんを訪問してまいりました。
10月17日 11時三津浜港に集合。澤田キャビネット幹事、曽根さん、宮崎さん、渡邊さん、
井上さん、松本幹事に新メンバーの白石さんと林さんと小生というメンバーでした。
徳永第一副会長が胃腸炎により急遽参加を取りやめになったのが心配でしたが、フェリーに乗って
缶ビールを飲みだしたころには皆さん小旅行に出発するワクワク感が心を支配していました。
フェリーの中では山口ライオンズクラブ例会場へのルート確認や翌日の懇親コンペについての
意気込みなどお酒も入っていたので周りのお客様にはかなりご迷惑な団体であったかと
心配しています。ゆっくりの船旅とはいかずテンション高いまま柳井港に到着中国縦貫道を
利用して無事に例会会場横のビジネスホテルに到着、夕方 6時半から例会スタートとなり
ました。例会後に懇親会があるから食事はあまり食べない方がいいと言われていたのですが、
美味しい和食の御膳についつい完食してしまいました。中野会長から歓迎のあいさつを
頂いたのちに小生もご挨拶をさせていただきました。宮内名誉顧問が築かれたご縁が
出発点となり、長年にわたり継続している両クラブのフレンドリーな関係は来年の
山口ライオンズクラブ 60周年、再来年の松山西ライオンズクラブ 50周年へと引き継がれて
行くのだという想いを新たに致しました。例会で印象に残っているのは誕生月の会員一人
一人が近況を報告する事で、これは良いことだなと思いました。そして強烈だったのがドーネーシォン
報告でした。「まずは中野会長から松山西ライオンズクラブさんを歓迎してビッグ 1本頂き
ました !! 続きまして松山西ライオンズクラブ鶴居会長からハーフ一本いただきました !」
と読み上げられたときはビックリ致しました。その後もお誕生日のお祝いを頂いた会員さん
などのお名前が読み上げられハーフ一本が続き合計の金額は 16万円くらいだったと思います。
ビッグとハーフしか無いようでしたのでこれは大変だなぁと思いましたしビッグ一本にしておけば
良かったかと後悔したりも致した次第です。例会後の懇親会は会員の経営されている大きな
ラウンジで翌日のコンペのことや旧知の松山西ライオンズクラブ会員の話題などを肴に楽しく
ワイワイガヤガヤと過ごしました。
翌 18日は本降りの雨でした。これはゴルフなどできるなかなと心配しながらホテルを出発、
途中の高速道路では大雨警報かというくらい降っていましたので午前中の便で帰ることになると
確信していたのですが、名門周南カントリークラブに到着してみるとやんでいるのに驚き
でした。やはり晴男だったのかと内心自画自賛していました。
私たちの組は林さんと小生共に 40台で午前中を終え、名手中野会長が 50台をたたくという
滑り出しだったのですが後半小生が崩れ中野会長が底力を発揮され逆転を喫するという
展開でした。ほかの組に希望をつないだのですが結果的には今年もあと一歩及ばずこの
雪辱は来年の山口ライオンズクラブ 60周年記念コンペに持ち越しとなってしまいましたが、
そのほうが良かったという風にしようと練習に努めてまいります。
早朝のスタートだったので午後 4時のフェリーに間に合い夕方 6時半には三津浜港に
到着することができました。帰りの船の中では往路とは打って変わってみな静かに熟睡
していました。皆さん本当にお疲れ様でした。そして楽しい旅行をありがとうございました。


国体を終えてホッケー人生を思う
                             蔵原一郎
 第72回国民体育大会ホッケー大会の終了を宣言し、国旗掲揚台から会旗や国旗が降ろされるのを見ている中に、思わず溢れる涙を抑える事が出来なかつた。多くの人々の恐ろしい程の努力やエネルギーを結集し、知力を傾けて開催に漕ぎ付けた会であり、沢山の人々のご理解や御好意、そして松山西ライオンズクラブ諸兄姉の御援助の暖かさが脳裏を去来したのである。
中学に入学してホッケー競技を始めた頃、英国発祥のこの競技から人生を左右される様なインパクトが与えられるとは、考えてもみなかつた。戦争が激しくなり、動員・軍隊と激動の時代を駆け抜けて大学に入学した折、ホッケー競技の事等全く頭になかつた。併し、再開された「帝国大学リーグ」に選手が十分に集まらず、「母校の名誉の為に」とか何とか擽られて出場する羽目になり、又、卒業すると福岡県の国体選手にされてしまつた。松山赤十字病院に赴任し、もうホッケーとは縁が切れたと思つていたら、松山南高校から三顧の礼をもつてコーチを依頼されてしまつた。土・日曜毎に女子高生と選抜だ・インターハイだと走り回つている中に、気が付くと県協会の理事、会長、そしていつの間にか四国ホッケー協会長にされていたのである。
一番の思い出は23年前、今は亡き高円宮憲仁親王殿下がシニアのチームを立ち上げられた折、メンバーの一人に選ばれた事である。大阪・長居球技場を中心に砥部競技場でも殿下と共に戦い、夜は、飲み・語り、そして殿下の行かれる所には同道させて頂き、光栄であつた。この度、高円宮絢子女王殿下がホツケー会場にお出での折、この思い出を説明申し上げたところ、大きな目で頷きながら聞いて頂き、魅力的な女王殿下の笑顔が忘れられない。
国体の成績は芳しくなく、県体育協会に申し訳ない思いで一杯である。努力の甲斐なく、男性が5位・女性が6位と目標に届かず、その原因は専用グランドの完成が非常に遅れた事、従つて実力発揮には程遠い練習量に終わつた事等と決め付けて、自らを慰めている。
最後になつたが、松山西ライオンズクラブから昨年頂いたテント二張り、今年工面して頂いた特殊タンカ二脚が大活躍をした事を報告して、心からの感謝の意を捧げたい。