ライオンズ会員コラム

国体を終えてホッケー人生を思う
                             蔵原一郎
 第72回国民体育大会ホッケー大会の終了を宣言し、国旗掲揚台から会旗や国旗が降ろされるのを見ている中に、思わず溢れる涙を抑える事が出来なかつた。多くの人々の恐ろしい程の努力やエネルギーを結集し、知力を傾けて開催に漕ぎ付けた会であり、沢山の人々のご理解や御好意、そして松山西ライオンズクラブ諸兄姉の御援助の暖かさが脳裏を去来したのである。
中学に入学してホッケー競技を始めた頃、英国発祥のこの競技から人生を左右される様なインパクトが与えられるとは、考えてもみなかつた。戦争が激しくなり、動員・軍隊と激動の時代を駆け抜けて大学に入学した折、ホッケー競技の事等全く頭になかつた。併し、再開された「帝国大学リーグ」に選手が十分に集まらず、「母校の名誉の為に」とか何とか擽られて出場する羽目になり、又、卒業すると福岡県の国体選手にされてしまつた。松山赤十字病院に赴任し、もうホッケーとは縁が切れたと思つていたら、松山南高校から三顧の礼をもつてコーチを依頼されてしまつた。土・日曜毎に女子高生と選抜だ・インターハイだと走り回つている中に、気が付くと県協会の理事、会長、そしていつの間にか四国ホッケー協会長にされていたのである。
一番の思い出は23年前、今は亡き高円宮憲仁親王殿下がシニアのチームを立ち上げられた折、メンバーの一人に選ばれた事である。大阪・長居球技場を中心に砥部競技場でも殿下と共に戦い、夜は、飲み・語り、そして殿下の行かれる所には同道させて頂き、光栄であつた。この度、高円宮絢子女王殿下がホツケー会場にお出での折、この思い出を説明申し上げたところ、大きな目で頷きながら聞いて頂き、魅力的な女王殿下の笑顔が忘れられない。
国体の成績は芳しくなく、県体育協会に申し訳ない思いで一杯である。努力の甲斐なく、男性が5位・女性が6位と目標に届かず、その原因は専用グランドの完成が非常に遅れた事、従つて実力発揮には程遠い練習量に終わつた事等と決め付けて、自らを慰めている。
最後になつたが、松山西ライオンズクラブから昨年頂いたテント二張り、今年工面して頂いた特殊タンカ二脚が大活躍をした事を報告して、心からの感謝の意を捧げたい。